君と、走る。 <後>
「今度の日曜日、2人でどこか行かないか?」
部屋の熱帯魚をじっと見つめる手塚に、大石は後ろから声をかけた。
ゆっくりと振り向いた手塚に笑いかけると、
手塚の表情も少し和らいだように見えた。
「行きたい所とか、リクエストあったら受け付けるけど?」
「…そうだな。考えておく」
普通の人が聞けば、素っ気なく聞こえる声だけど、
手塚自身にはわざと冷たくしているつもりはない事を、大石は長い付き合いでわかってきた。
「考えておく」と言うことは、ほとんどOKだと思っても間違いないだろう。
「海に行きたい」
前日に聞き出した手塚の望み通り、海に行くことにした大石は、
取ったばかりの免許で借り物の車を走らせ、昼前には目的地に到着することが出来た。
海水浴の季節が過ぎた秋の海岸は、片手で数えるほどしか人がいなかった。
十分に陽があたっているので寒くはないが、
潮風が随分と吹いているため、多少肌寒いのはしょうがない。
手塚はというと、波打ち際のすぐ近くまで行き、何も言わず海を見ている。
「手塚ー、くれぐれも海には入るなよ。濡れるからな!」
波の音で声が聞こえにくいかと思い、少し大きな声で注意をすると、
手塚はこちらに振り向いて、
「子供みたいな事を言うな。それぐらいちゃんとわかってる」
これまた大きな声で反論された。
振り向いたときの手塚は、
もはやトレードマークになってしまっている眉間の皺が消えていて、
その表情には、微かに笑っているのが見て取れた。
「楽しそうだな」
ふと、独り言のように小さく呟いた。
手塚の小さな変化でさえも、大石はとても嬉しく感じるもので。
こうして微笑ってくれるだけでも、ここまで連れてきた甲斐があると思った。
――あの頃の手塚は、目に見えて落ち込んでいたから。
医者からテニスをすることを止められてからの手塚は、
表面上は何も変わらないように見えても、本当は深く傷付いていた。
あの頃の手塚は、少し情緒不安定になっていたらしい。
以前の手塚からは考えられないが、よく涙を見せるようになったり、
時々不安になるのか、大石の感情を形で示して欲しがった。
以前、大石のためだけに見せてくれた、花が咲いたような笑顔も見なくなったし、
自分が後で辛くなるとわかっていても、カラダを繋げたがったりもした。
不安にさせないように優しく諭すと、素直に納得してくれる。
だけど、そのとき大石を見つめる瞳は、いつもどこか怯えていて。
手塚のそんな様子はあまりにも痛々しいもので、それを見るたびに、大石は胸が痛くなった。
だから、今みたいに楽しそうにしている手塚を見ると、とても嬉しく思う。
もともと手塚は感情を顔に出さないタイプだけれど、
だからこそ、手塚が少しでも笑顔を見せてくれただけで、こっちまで幸せな気分になる。
最近になって手塚の心は落ち着いてきたし、
二人が大学生の今でも、恋人同士の関係はずっと続いていた。
こうして二人で出かけたり、一緒の時間を過ごしたり。
こんな当たり前のことが、一番の幸せなんだろう。
……と、ちょっと年寄りくさいことを思いながら、長い時間大石は遠くから手塚を眺めていた。
手塚がこっちに歩み寄ってくる。
「…ん、何?」
「さっきから何なんだ。 ずっとこっちばっかり見て…」
「いや、楽しそうだなって思って見てただけ。」
正直に言うと、手塚はわずかに眉を歪めて怪訝そうな表情をした。
「……意味がわからない。 何だそれは」
「ただ単にそう思っただけだよ。ほら、ここ座れば?」
「ああ」
下に敷いてあるビニールシートを軽く叩いて、隣に座るように促すと、
手塚は小さく返事をすると、大石の隣に腰を下ろした。
「……大石。」
「ん?」
ふと、手塚が話しかけてきた。
「お前に言ったら怒るかもしれないと思ったんだが…
俺が、まだテニスがしたいと言ったら、
お前は、なんて言う?」
いつか、きっと。
手塚の口からこういう言葉が出るだろうと、
大石は何年も前からそう思っていた。
彼にとって、テニスはとても大切だった。
だから、それを急に手放さなければならなかったときには、
手塚は今にも壊れてしまいそうなほどに、とても儚く見えて。
どうか、手塚からテニスを奪わないでください、と。
大石は、そんな手塚を見るたびにそう思っていた。
でも、無理にテニスをしたら、それこそ手塚の体が壊れてしまう。
それも、大石はちゃんとわかっているつもりだ。
だけど。
「…それは、手塚がやりたいようにすればいいよ」
少しの間考えたうえで質問に答えると、
手塚は、困ったように眉を歪めた。
「もっと色々と言われると思ったんだが」
そう言われて、大石は笑った。
確かに自分の性格から考えると、手塚を真っ先に止めに入りそうだと自覚している。
手塚が肩を壊す前から、大石は手塚のことを心配していた。
「無茶をするな」と言ったところで、手塚はその忠告を聞くようなことはほとんどなかった。
あの頃の大石や手塚の行動が、後になって手塚自身にどんな影響をもたらしたのかは分からない。
あの時に手塚が大石の小言を聞いていたら、今の状況を避けられていたのかと言えば、
そんなことは到底わからないのだから。
ただ、今は。
「お前が1度自分の中で決めたことは、
俺が後でなんて言ったって、最後まで押し通すだろう?
そうやって俺に聞いてくる時点で、もう手塚の答えは決まってるもんだと思ってるから」
「………悪い」
言葉の意味をどう解釈したのか、手塚は小さく謝罪の言葉を呟く。
その様子に、大石はつい苦笑してしまう。
「別に謝ることないって。嫌味を言ってる訳じゃないんだからさ。
…………それに、」
「?」
「俺も、手塚のテニスが好きだから」
「……………」
「見たいんだ、手塚がラケット握ってるところ」
テニスをしているときの手塚は、一層輝いて見えた。
勿論、今もその輝きは決して失われてはいない。
「もう一度チャレンジするって手塚が決めたんだったら、俺は止められないよ。
なんせ、手塚に甘いからね。俺は。
最後には手塚の気持ちを優先したくなっちゃうんだよな〜、いつもいつも」
照れ隠しに笑ってみせると、手塚も口の端を引き上げた。
「大石」
「ん?」
「…ありがとう。」
花が綻ぶような笑顔で、手塚は笑った。
「もう一度やってみようと思う。 …結果はどうなっても」
「そうだな。 俺も応援するから」
潮風が、随分と強く吹いていた。
…なんじゃこりゃ。
随分と曖昧な終わりかただなぁ…。
大石って、こういうタイプだと思うんですよね〜。